20年間苦しんだ院長のパニック障害ストーリー

院長がどういうパニック障害の症状だったのか、どう向き合ってきたのかを

20年間分のストーリーしております。ご興味がある方のみご覧ください。

私が20年苦しんだパニック障害(その他諸々)細かいストーリーをご覧ください。

私は、今までパニック障害の辛い経験をプロフィールやブログで、伝えてきましたが、細かい所までは書いていませんでしたので私が知る限りパニック障害のきっかけ・原因・改善のことを伝えていきたいと思います。

この約20年間私がどのようにしてパニック障害と戦ってきたかということをお話していきます。
内容を見ていただいている方が、少しでもなにか気づくきっかけなればと思います。
長文になりますが、よろしければ見てください。

あれは・・・10代後半の時

(その前にも予兆みたいものありましたから合わせて20年くらいかと思います)
私は、当初夕方の15時~夜0時までの不規則な派遣のバイトをしていました。
1年ほど続けて、ある日の休みにバイト先の人と朝ご飯を食べに行く約束をして
ある飲食店へ行ったことがパニック障害の始まりでした。
頼んだ定食を食べ終わった時でした。なんだか気分が悪くなり外の空気を吸おうと外へ出た時の事でした。

駐車場で嘔吐を連続5回くらいしてしまいました。

そこからでした。体調がおかしくなったのは

その日、家に帰り、「明日には良くなるだろう」と思いゆっくり寝ました。
次の日は、少ししんどかったのですが、バイトは行けると思いバイト先に向かいました。
バイト先に着いた途端、急に気分が悪くなり、トイレへ駆け込みました。
その後、仕事ができる状態ではなかったので、すぐに家に帰り、横になりました。
それからでした。今まで感じたことのない体調不調が続き、ほぼ1年間外へ出れない状態が続きました。
そこからパニック障害との戦いが始まりました。外に出れない日々が1年すぎた頃に
家から外に出て行けるように様々な努力を自分なりにしました。

しかし無理して外に出ると、お店行くのにも・どこに行こうとするのにも

しんどい・めまい・ふらつく・怖い・気分悪い・餌付く・人の目が気になる
車乗っていくにも気分が悪く、信号が赤の度に,
助手席を使い,横になる。

というのが、常に付きまとってました。
心底からこんな症状は自分だけだと思い続けていました(自分を攻め続けました)
正直、泣く涙もなくなっていました。どうしたらいいのか・・・という気持ちでした。
その状態がしばらく続いたあとに母親が心配し始め「病院へ行ってみたら」と言われました。言われた時は行く勇気・元気がありませんでした。

私が経験したパニック障害は他人からすれば、元気そうにみえてしまうのが
とても辛いところです。そこでよく言われるのが

「気の持ちようだよ」

「悪いように見えない」

「がんばれ」

「大丈夫」

と言われることが一番辛かったと今も覚えております。
日によって、体調の波があったので(小波&大波&津波様々ありました)
気分が少しでも落ち着いているときに、病院へ勇気を出して行きました。

(勇気よりも我慢が強かったかもしれません)

私の場合は、一番きつかったのが餌付きでしたので、常に袋を常備しており、いつでも吐いても大丈夫なようにと持っていました。
始めは、総合病院の内科へ行って,これまでの症状を伝えました。

そこでお医者さんから

「そんな病気はない」

「心療内科へ行って」

という言葉だけでした。

その言葉が正直ショックでした。

その後、ショックからか病院内のトイレで餌付きが止まらなかったのを、今も鮮明に覚えております。まだ、病院しか知らなかった私は次に心療内科へ行きました。
袋片手に行ったのもよく覚えています。

行けたのは、よかったのですが,先生の診察は「私の話を聞く」それだけでした。

その後、薬(安定剤・眠剤)だけ処方され終了でした。
言われるがまま薬を飲んでいましたが、良くなることもなく数か月が経ちました。
このままでは良くならないと思い、決死の覚悟で、別の心療内科へ行きましたが、結局一緒でした・・・。
ただ、外出することが少しだけ,できるようになっていました。
それは、おそらく当初、袋を常時している事で、少し安心感が生まれ、少しずつできたんだと思います。
それだけではなく、今思うと自分が良くなりたい気持ちを強くもっていた為、自然と外出という感じだったかもしれません。

(行く所は限定されていましたが・・・)

そのあたりから、こういう風の噂を聞いたのです。

「環境を変えると、良くなるよ」

それを信じて、パニック障害になる前に、働いていた車屋さんにダメ元でお願いをしてみたら、再度働かせていただける事になりました。本当にうれしい事でした。

その時の関係者様に本当に感謝します。

そのきっかけで嫁さんと出会うことができました。

今思うと➡運命だったかもしれません。

しかしながら、新たなる試練が続きました。

それは

・従業員と一緒にご飯を食べる

・出張へ出る

・飲み会へ行く

・新年会・忘年会参加

・会社での旅行へ行く

というのが辛くて、しんどかったのをよく覚えています。
このときはいつか良くなる可能性があると信じて、がむしゃらに働いて、付き合いも出来る限りしました。
働き始め半年ぐらいから少しずつ落ち着いている自分がいました。

(外で作業が多かった為、少しだけ安心感があったのかもしれません)

その後、何年か働かして頂き、自然と当時同じ職場で働いていた、嫁さんと付き合うようになり、その後、数年が立ち結婚の意識も高まり、そして結婚することになりました。

結婚後、すぐに子供を妊娠した時に、このままの収入では、嫁さん・生まれてくる子供を養えないと思い、経済的に少しでも安定を求め、転職を決意しました。

そこで色々な仕事をしたのですが、自分に合わず何回も転職しました。
転職している内に、最終的に車の営業をすることに落ち着きました。

(その落ち着いた頃ぐらいに長男が生まれました)

なぜか車の営業している時は、体調は落ち着いていました。

症状もまったくと言っていいほどに出なかったのです。

それはなぜだろうとその時は分かりませんでしたが
今、治療家をして同じような境遇の患者さんを見ていると同じような事が起こっているという方が何人かおられました。

パニック障害も環境の変化などで落ち着く時期やそのまま症状が出なくなるというのが生まれるのかもしれません。
ただ、それは私の個人的な経験・考えですので、全ての人とは言いきれません。
車の営業の話に戻りますが、仕事の方は、正直忙しすぎました。
もしかしたら、その忙しさがあって体の状態が落ち着いていた、もしくは鈍くなっていた後回しになっていた、そのあたりは定かではありませんが普通に過ごすことはできていました。(不思議なぐらい)
月日は流れて、突然働いているところの上司が変わるという話になり、そして上司が変わり、それまでの営業成績は順調に上げてこれたのですが、急に上司が変わった途端下降してしまいました。
株でいったら大暴落状態でした・・・・。
体調も少し変動が出ましたが、耐えれる状態でした。
その上司とどうしても合わなかったので、退職を願いましたが
営業成績を上げている事を知っていたそのもう一つ上の上司が「違う店舗への移動はどうだ」と言われました。
「それなら大丈夫かもしれない」と思い、違う店舗に移動となり、移動先では、体調も悪くなく、雰囲気は悪くなかったのですが、営業成績の悪さからの脱却がすごく大変でした・・・。業績が元に戻るまで、三か月ほどかかり、移動先にはとても居づらかったです。
そこから落ち着いていたのですが自分の性格上、自分の体を後回しにしてお客さんとの対応を重視してしまい実質的に休みがない状態に陥ってしまいました。子供とも全然関わっていないのもよく覚えています。
長男には、ほんと申し訳ない気持ちでした。
それから1年半くらいが過ぎようとしていた時にふと、営業の仕事を辞めて、手に職をつけたいと思い始めました。
理由としては
①以前から興味を持っていた(治療家)
②仕事に未来を感じれなくなった
③休みを十分とれていない
正直仕事をいやになったのかもしれません・・・・。
思い始めて数ヵ月後に働いていた車の営業を辞め、接骨院の先生の資格がほしいと思い、専門学校への願書を出しました。
その時も、まだ体の状態は安定している方でした。

ここからです。大変だったのは・・・。

専門学校に入学し、様々なことを学びました。
解剖学・生理学・病理学・外科学・一般臨床学・関係法規・整形外科学・リハビリテーション学柔道整復学・衛生学・運動学という感じです。抜けているかもしれません・・・。
普段から勉強してこなかった私でしたので勉強方法がわかりませんでした。そこが一番難しかった事です。
悪戦苦闘しながら、3年生まで行きましたが国家試験が近づくにつれ、また昔の体の不調が出始めました・・・。
餌付き・呼吸がしにくいあとは、外食が怖い
という事も出てきました。
その専門学校には食堂があり、そこでお昼ご飯を食べている時も急に不安になり、残すことも何回もありました。
そこで初めて、ふと人には正直に自分の症状を言えていないと感じました。
知られなくない・心配されたくないなどが心の中にあったのだと思います。
今思うと、発症してからずっと人に私の症状を隠し続けていたなと思いました。
それは、言ったらどう思われるのだろうという不安・恐怖だったと思います。
人には元気な自分を見せていたいというプライドもありました。
だから余計に言えなかったのだと思います。
その状態が続き、国家試験を迎えました。
国家試験会場は他府県でしたので、前泊して、当日に会場入りという事をしましたが当日の体の状態は最悪でした。
国家試験の重圧が体にのしかかり、電車移動ではもうフラフラの状態でした。
今まで味わったことのない緊張もさらにのしかかり自分は死ぬのではないかと思うぐらいでした。
朝ほぼご飯を食べずに行ったはずなのですが会場着くと、気分がMAXに悪くなり、トイレに駆け込みました。
15分くらい餌付きっぱなしでした。胃液がすべて出たという感じでもうフラフラでした。
なんとか席に着いたら、さらなる悲劇が待ってました。
席が一番前だったのです。(試験官の前)さらに気分が悪くなり、やばいやばいと思っていた時に試験がスタートしました。
あれはもう思い出したくない経験でした。
なんとかフラフラの状態で、午前中の試験が終わりましたが、その後は、少し気持ちが落ち着いたのか、午後は普通の状態で望みましたが、とき既に遅しでした。最悪の結果だったのは自分でもよくわかっていました。
後日、結果が届き不合格でした。
なんと、合格まで1点足らずという結果に私は泣きました。
嫁さんにも謝りました。
もちろん来年も受けるつもりでしたが、さらに嫁さんには1年待ってもらうという現実がありました。正直、申し訳ない気持ちがあり、別れを切り出しましたが、断れました。
ラストチャンスという事で来年の国家試験に賭けると言いました。
よくこんな私についてきてくれるな~と思いながら(本当にうれしい限りですが)
全力でまた勉強をし直しました。
不合格だったのは、より自分の体を知る為(体調不良を克服)には「勉強が足らないよ」という意味に私は捉え、今まで以上に勉強をしました。
今思うと、これは神様からの試練なのかもしれません。
実際、新卒で80~90%の合格率です。
しかし、既卒の場合は、合格率は20%以下になっています。
その20%以下に賭けることにしました。

1年後

以前のような経験はしたくないと思い、わざわざ試験会場を変えて、体のメンテナンスを自分が知る限りの事をしたおかげで、体調は初回に受けた時よりもマシでした。
試験を受け、後日合格通知が届き合格できました。
運がよかったと思います本当に・・・。
ようやく治療家への道が一歩前進できました。
しかし、体の不調は、今後も続くことになります。

国家試験後は就職活動に入りましたが・・・なかなか決まらず焦っていました。
この時もあまり調子は良くなかったのはよく覚えています。
滋賀・京都などでも就職活動しましたが、中々決まらずにいました。
とても言いにくかったのですが、整骨院でアルバイトをしていた時があり(専門学校2年生の時)そこへ一度お願いをしてみました。
整骨院の院長先生とお話をしてそこで就職をすることになりました。
そこから、なぜか今までにない症状がぶり返してきました。
何気ない時にも、めまいふらつきやしんどさがでたり・餌付きが出たり、頻繁に風邪を引いてしまったりが続いていました。
もちろんの事、仕事場ではひたすら仕事に没頭していましたが・・・・

(我慢の方が強かったですが)

様々なストレスがのしかかっていると感じて、ふと自分でこのままだと倒れるかもしれないと思い、改めて病院の検査をして、薬を服用していましたが改善はしませんでした。

病院の先生にこの薬はどうかと言われたのがパキシルでした。(とてもいい先生で以前から相談はしていました。)
服用すると、たしかに気持ちは楽になった感じはありましたが、副作用が強く出ました。

(寝汗が尋常じゃないくらい出ました)

いやな場面(お店・外食等)に行っても症状は現れた為、自分の中でどうしたらいいのか分からなくなってきました。いざ発作が落ち着いてほしいという時には、薬の効果はありませんでした。

私はそこで思いました。薬に頼っても良くならないと思い、なんとかしたいという気持ちからインターネットで、調べている時に、後々私の師匠になる、とある治療院のHPを見て、良くなるかもしれないと感じて症状をメールで伝えました。

何日後に治療していただくことになりました。
その後、何回か治療を受けていくと(3か月~半年くらいから)
自分自身が変わっている感じがしました。

胃の重たさ・餌付きも少しマシかなと気づき始めました。
正直、波はありましたが(辛い時も何回もありました)
でも院長は「良くなりますから」と励まし続けてくれました。

今思うと、院長に出会わなければ本当に良くなっていなかったと思いますし、自分自身の治療家レベルも上がっていなかったと思います。
整骨院の治療法もすばらしいのですが、もっとすごい治療法を知りたいと思い、整骨院を退職をし、その後、自分が思う治療法を探すことになりました。

しかしながら家族を養う事が優先でしたのでデイサービス(機能訓練指導員)で再就職し、仕事をしながら治療法を探し続けました。

正直、中々良い治療法は見つかりませんでした。

その時も、通っていた治療院の治療を受け続けていました。
ふとそこで「治療院の治療を学びたい」と思うようになり「先生の施術教えて頂けませんか」と突然お願いをしてみました。
その後、通っていた治療院の院長と色々話をし、今までの私の経歴等もお話をしました。
先生が「いいですよ。始めたばかりの勉強会を何曜日にしていますので、よかったらどうぞ。」と言っていただけました。
テンションが上がったのをよく覚えています。

そこから、私の求めていた道に進む形になりました。

新しい自分を見つける為に、治療院の指導のもとで様々な勉強をさせていただきました。

ただ一つ波があった症状としては餌付き予期不安が最後に残っていました。それ以外は、ほぼ回復していました。
この症状も少しずつ変わってくると信じていました。
今思えば、この時変わり始めている私をみて、嫁さんが一番喜んでいたかもしれないですね。正直、院長に出会うまでは、この症状と一生付き合っていくしかないと思っていました。

その後

色々ありながらも、勉強会の参加者が増えて行きました。
その方々に会うのも運命だったと思います。

勉強を2年くらい過ぎた頃から、その時働いていた会社の人・家族に
治療の練習台になってもらい日々経験を積んでいきました。
年月が経つにつれ、その練習台の方々が少しずつ良くなっていかれました。

その方々の家族・知り合い・友人が治療を希望され、自然と口コミが少しずつ広がり、体に悩みをもっている方々を治療させていただき良くなられ、その方の笑顔を見ると本当にうれしく思います。
その頃から、餌付きも少しずつ減ってきました。

約20年、私を悩ましていたこの症状も少し時間(1年~2年)はかかりましたが、本当に大分良くなりました。
20年→たった1年~2年良くなると思えば早かったです。
人それぞれ個人差はありますが

良くなりたい気持ち+諦めない気持ちが一番大事です。
・どれだけ名医でも
・どれだけゴットハンドの治療家でも
本人が良くなりたい気持ち+諦めない気持ちを持たない限り、良くならないと私は思います。それを、思い始めてそこから体は変わります。

ちょっと話がそれました・・・。

そこからさらに年月が立ち
通っていた治療院が一緒に働いて、体のことで悩んでいる人々を良くしていこうと言ってくださいました。
もちろん私の経験を更に上げるためでもありました。
本当に家族・院長・勉強会の仲間・大阪の有名な院長先生(色々お世話になっている方です)
患者さん・以前の会社の皆さんに支えられて感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。

見ていただいている方に伝えたいことがあります。

自分自身が経験したパニック障害うつ耳鳴りめまい、予期不安、嘔吐恐怖が良くなるという事を今苦しんでいる方に伝えたいという気持ち・自分自身が独立開業をしたいという気持ちが、重なったのが2018年でした。

さらに、自分自身のオリジナル施術をプラスして、パニック障害うつ耳鳴りまい、予期不安、嘔吐恐怖を良くしていけるアドバイス、サポートをしていければと思っています。パニック障害、うつ、耳鳴り、めまい、予期不安、嘔吐恐怖や様々な慢性症状で悩んでいるのであれば、ぜひ、ご連絡ください。次は、あなたの番ですよ。

パニック障害は本当に良くなります。決してあきらめないでください。
これで私とパニック障害ストーリーは終了したいと思います。

長文を、ご覧頂きましてありがとうございました。

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